東京第一支部
人生も仕事も掴む
「負けない」×「美学」
選択×哲学
先が見えないのは本当か?
今、世の中は先が見えないとあちこちで言われます。
コロナの流行や紛争の勃発、経済状況の変化、AIをはじめ技術革新等さまざまな要素がからみあい、全く不透明な時代だと。
しかし、その前は見えていたのでしょうか。
視界は良好でしたか。
以前であれば、かくあるべき社会のセオリーに従えば、薄ぼんやりとした何かを掴めた気にもなれたでしょう。
政治、経済、国際情勢、テクノロジーなどの日々大量に発信される予測も可能性の一つにすぎません。どんなにもっともらしい予測でも、予測であれば覆されるという前提をあらかじめ内に含んでいます。
一寸先は闇という言葉はあるように
先が見えなくなったのではなく、見えないのが当たり前です。
誰にも先が見えない。
いつの時代もこれが真実です。
それでも日本は良い方かもしれません。
それはまだ「選択の余地がある国」という体を保っているからです。
たとえ先は見えなくとも、選択はできるのですから。
選択の連続
どんなに世の中が見えなくとも、私たちは人生の、ビジネスの、進路の、未来の進む方向に何かしらの解をだし、選択していきます。
選択が重要なのは誰でもよくわかっています。生きていく上で、選択はさけて通れません。
今ある問題をどうするか、どちらがより有利か、幸福に近いか、この先に結果を残せるか…
人生もビジネスもなににおいてもが選択の連続です。
どの選択肢を選ぶか迷い、気が付いていない違う選択肢があるのではと考ええ、悩みます。
そして、やっと決めた選択ものちに後悔したり。
もっといい選択ができていたら、先が読めていたら、何が間違っていたのかと考え、振り返った時にこう思います。
「なぜ、私はそれを選んだのだろう?」
実は、そう考えてしまうところに選択を見えなくさせている一因があります。
自分の嗜好か、周りとの兼ね合いか、人からの助言か、これまでの慣例からか…選んだ理由はたくさんあり、人それぞれになるでしょう。でも、結局、自分の中の「よい」に従って「私がそれを選んだ」わけです。
たとえ他人に勧められ、本意でなくてもそれを選んだなら、それが「よい」と判断したわけです。
また、自分には不利なことを社会のためにあえて選ぶ人もいます。不利であってもそう選ぶことがしっくりくるのであれば「よい」なのです。「よい」は価値観という言葉に近いかもしれません。
選択の出どころは内か、外か
では、その「よい」は本当に自分の中からわき出たものなのか?と考えたらどうでしょう。
フランスの精神科医で哲学者のジャック・ラカンは「私は外部に規定される」と云いました。
「よい」と同じように、私たちは直感、感性、本能といったものも内部からわき出るものと捉えています。確かに「私がそれを選んだ」のですが、ラカンに従うなら転換がおこります。
「なにが、私にそれを選ばせたのか?」
この「なに」という外部にあるものが私にえらばせている。
この「なに」をつかまないと一向に選択というものが見えてきません。
人生にビジネスに、選択は今後を左右するものとして重要だといっても、その重要さは平面的な捉えになります。
あなたは自分で選んでいるつもりが、「なに」があなたに選ばせたのですから。そしてこれか先も「なに」に選ばされるわけです。
もちろん、それでも普通に生きていけます。今まで通り「なに」の存在など忘れたらいいのですから。
でも、これまでと違いをつけたいなら、「なに」を明らかにするほかありません。
いま盛んな心理学や精神分析などは内に内にと探していき、「なぜ私は選んだか」の私にスポットを当てていきます。しかし、「なに」は外部にあります。 内部をのぞいても見つかりません。
「なに」とはなにか?
では、どうやって?「なに」を明らかにするのか。
私たちが生きている世界は本当はどうなっているのか、その世界の中で生きている人間はどうなっているのか。
理解していくのは「世界と人間の本質」です。
「世界と人間の本質」が「なに」であり、ジャック・ラカンのいう外部もこの中にあります。「なに」によって個人の「よい」は作られ、もっというなら社会の「よい」も生み出されていきます。
私たちに選ばせる「なに」を外から眺めるます。まるで「世界と人間の本質」というタイトルの絵画を鑑賞するように。
「世界と人間の本質」をみる目をもって、そこから人生を、ビジネスを、未来に向けて選ぶ思考を手にできます。
それは短期的にも長期的であっても、些細なことでも重要なことでも同じです。例えば、お昼に何を食べるかの選択でさえ、自分で選んだつもりでも、本人には気が付かない何かに選ばされています。
ではどうやってその「世界と人間の本質」などという大仰なことをつかんでいけばいいのでしょう。
必要なのは哲学です。
なぜ哲学なのか?
なぜならば、前述した「世界と人間の本質」を長い年月かけて解き明かそうとしている動きが哲学だからです。
古代ギリシャの哲学者は「世界はどうなっているのか、なぜそうなるのか」を探究し続け、そこから長い時間をかけ全ての学問に分化しました。
日本では文系理系に分けられていますが、学問は自然科学、人文科学、社会科学と分類されます。どの学問も突き詰めると「世界はどうなっているのか」の探究であって、探究の原点となる哲学はすべての学問の頂点になります。どの学問も哲学から分化しました。
日本では最近まで哲学ブームがおこっていました。仕掛けられた日本のブームなど関係なく哲学の世界は粛々と「世界と人間の本質」を探る動きを進めています。そして、哲学の重要性は欧米企業の動きに現れています。
例えばグーグルやアップルは有能な哲学者を「イン・ハウス・フィロソファー(顧問哲学者)」として雇い入れて久しくなります。遅れて、日本でも名のしれた一部の企業では哲学者を雇わないまでも、課題の解決、事業方針の選択に哲学の方法論を使うようになってきました。
多様性の広がりとともに答えのないことに答えを考え決めていく、つまり方針を選択して示す必要性がでてきます。
古代ギリシアから3000年にわたり時代の天才哲学者たちの思考スキルが、人生に、ビジネスに役に立たないはずはない。
哲学は難しい、理屈っぽい、役に立たない…など大半の人はこう感じているでしょう。また、今まであまり触れたことがない方も少なくないでしょう。
長い時間かけて育まれた哲学には確かに、全てを知ろうとすると膨大な時間がかかり、努力も根気も必要です。
そこで、哲学が伝える「世界と人間の本質」から選択という部分にスポットを当て抽出することにしました。
抽出したといってもお伝えすることは哲学の世界観で、選択のノウハウではありません。ノウハウをお探しなら書店に行く方がいいでしょう。でもノウハウによった選択は何かに選ばされる状態そのものです。
哲学を抽出したそれだけでもかなりのボリュームですが、それだけでは足りません。
哲学に美学のエッセンスを加えていきます。
「美学」は負けないための作法
美学とは単に芸術の鑑賞法ではありません。
本当の美とは何かを追求することで育まれる「真・善・美」の作法とその志向です。美学は日常生活から人生、ビジネスまでカバーする負けないための作法ともいえます。
特にビジネスでは勝てる選択を目指します。
ですが、今やそれだけでは複雑な社会に対応できません。社会リテラシーが要求される今、勝てるではなく負けないがこと大事になります。
たとえその時に負けたとしても、その先に意味のある選択をしていくために何が「真に、善く、美しく」あるのかを迷い、考え、選べるかがとても重要になってきます。
勝てるより負けないことの方が長期的に見て有利になります。
美学は哲学の一分野です。ですが、哲学の枠に収まならないほど卓越した物事のとらえになっています。「世界と人間の本質」を眺める一つの支えとして「真・善・美」を通した美学がバランサーとして私たちを助けてくれます。
哲学に加え「美学」に基づく感性の磨きがこれからはもっと必要になります。
- 高い視点、広い視野での選択ができる
- 常識や既存の価値観から脱した独自の考えでの選択ができる
- 周囲の意見に流されない選択ができる
- 迷いの元を言語化し、より明確な選択につなげる
- 根拠のある選択をすることで自信ある行動がとれる
- 相手の納得を引き出す選択ができる
- 人と違う視点からの選択のアドバイスができる
独自の視点による選択は特にビジネスにおいては自身の「市場価値」を高めます。違う視点からの選択は他との差を生み出すでしょう。自分自身の人生を生きるという自由を選択は与えてくれます。