猫はどうして美しいのか?猫を通して美を考える

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古今東西、猫の魅力に捉えられ、その美しさを讃える作家や芸術家は多いですね。日本では谷崎潤一郎や三島由紀夫の猫好きは有名です。

フランスでは近代以降に室内飼いが広がると、猫の美を詩人が讃え、さらに文学が豊かになっていきます。ロマン派以降、犬を描いた名作はフランスヌはなく、猫がいないと始まらないというくらい美の対象になりました。

猫は古代エジプトでは家族の守り神、また豊穣の神のバステス神として崇められ、それがギリシャにわたり美の女神アフロディーテに変わったともいわれます。

イスラム教の創始者アラーも猫に魅了された人でした。
袖の上で寝ている猫を起こさないように袖を切り落としたというエピソードもあります。そのせいか、今でもモスクは猫の出入りは自由です。

時代や地域を超えて、人は猫の美しさに魅了されてしまいます。
膝の上で寝ている我が家の黒猫を撫でながら、どうしてなか少し考えてみました。

そこには “流線形” がある

私たちは無意識に流線形に美しさを感じるといわれます。

猫のフォルムはまさに流線です。
なだらかな曲線、しなやか捻り、なめらかな動きはどれも流線を連想させます。なので、流線の化身のような猫に美しさを見てしまうのは必然というわけです。

ここでまた疑問が湧きます。

なぜ流線形が美しいのでしょう。

では流線とは逆のギザギザした線や折れ曲がった形、引っ掛かり、突然途切れる直線はどうなのでしょう。芸術として評価はされるかもしれませんが、それが美しさとイコールにはなりません。

ジグザグや折れ曲がり、引っ掛かりは外部から何らかの圧がかかったり、障害があるイメージを受けます。また直線は滑らかさはありますが、それは人工的なものです。
自然に直線はありません。

流線形は、空間においても時間的においても自由で滑らかな動きを私たちに感じさせます。

滑らかさの幻想

しかし現実、私たちの日常生活はどうかというと、、、そう滑らかではありません。

一旦、天変地異が起こると、例えば地震のような、日常のささやかな滑らかさはいとも簡単になくなり、凹凸が激しい状態になります。気象が荒れただけでも私たちの生活はジグザグとなりさまざま難儀してしまいます。

天変地異などの自然現象でだけではなく、社会的な事象、例えば紛争や経済の動向でも日常の滑らかさは損なわれます。

平穏な社会は一見すると滑らかさを持つように思えますが、ルールや義務、因習などの制限がうねりを正し直線へと補正します。

実際は流線形のような自由で滑らかな世界は幻想です。

現実の世界は厳しく不条理なものといえます。

外圧や障害、また制限がある方が当たり前すぎるほど当たり前なのだと、人は頭のどこかで理解しているものです。でなければ幻想を生きていることになります。

だからこそ世界の厳しさや不条理、制限からの自由を流線形に見出し、そのしなやかさや軽やかさ、小気味よさに私たちは好ましさと憧れを抱き、美しさとして感知していきます。

そして、人が猫に流線への憧れを投影させるのは自然な流れです。

猫の距離

しばしば、猫は液体と言われることもあります。
指からこぼれる液体のようにコントロールできない猫は、犬などとは違う距離というものがあります。

そして美は距離があります。
手が届かない、距離があるからこそ美が存在できます。
近すぎるものは美になりません。犬は私たちの親友として近いからこそ美ではないのです。

猫はこの「美的な距離」を醸しだすことで、さらに美しさをまとっていきます。

常に美を求める作家や芸術家たちはこの「美的な距離」自体を求めるのかもしれません。

猫は流線と距離の2つによって美を獲得し、私たちを操っているかもしれません。

そして、人は猫に嬉々として操られています。
今、膝の上で寝ている猫を起こさないよう動けませんが、袖を切ったアラーの気持ちがよく分かります。足は切れないので、しばらくこのまま。