人生はAできないものであり、Bするしかない
人生とは、、、という語りは世にたくさんあります。
哲学界の鬼才ウィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」という有名な命題があります。この命題をもとに、人生は「Aできないものであり、Bするしかない」ものだと考えるなら。
このAとBに入れるとしたら、どんな言葉になるか。あなたなら何を入れますか。
そこから世界をどう捉えているのか、人生をどう受け止めているのか判るかもしれません。また考えることで違った眺望に出会えるかもしれません。
語り得ないってどうゆうこと?
さて、ウィトゲンシュタインの語り得ないものとは、一体なんでしょう。
簡単に言ってしまうと、この世界に在るかないか判らないものです。例えば「死後の世界」や「もって生まれた運命」、また「気の流れ」など在るかどうかは判別できません。
同じように、真実、愛、魂、運気など目に見えず手にも取れず、在るのかないのか不明瞭なものは沢山あります。
そして、その頂点は「神」になります。
人は在るかどうか判らないものについて、あれやこれやと語ります。例えば「愛とは何か」とか「魂は天国にいけるか」といった問いもそうです。
これらは事実と照らし合わせて考えられないもの、本来は「言葉」にできないものなので、そもそも問い自体に意味がないといえます。
そういった点では、自己啓発もスピリチュアルもコーチングもセラピーも、語れないことを無理やり語ろうとして、結局は人生の余計な問題を作っているのかもしれません。
私たちは語り得ないものを、語れば語るほど、語られたそのものは汚れていってしまいます。
ならば、沈黙するのみ
ならば、沈黙するのみと、このウィトゲンシュタインの潔さに世界が唸ったのです。
もし凡人なら、こう書いていたかもしれません。
「語れないものは存在しない、だから語ることはできない」
哲学では、言葉の表現の限界が「世界の限界」になるという考えがあります。
語ることができないなら、そこが人間の認識の限界であり、そこが世界の限界になると。
言葉を使うことが人間の限界を決めることになってくる。
すると、「沈黙する」と「語ることはできない」は違う意味になってきます。
語り得ぬものについては無理して語らず、語り得るものを語り尽くすことで、結果として語り得ぬものを示せるのではないか。
こうウィトゲンシュタインの真意を考察することもできます。
沈黙が、語り得ぬものの「存在」を暗に示しているというわけです。
AとBに入るものとは
言葉を使う私たちにとって、語り得ないとは大きな制約です。
同じように人生には何か大きな制約があり、それゆえ、そうせざる得ないという状況も生まれます。
だけれども、そうぜざる得ない現実の中に制約の枠を超えるステップがあるはずだ。
そう考えると、今のひたすら窮屈な状況もその先にほのかな明かりが灯るかもしれません。
AとBには何を入れるか。
私はこう考えました。
人生とは御し得ないものであり、ただあやされるものである。
語れば語るほど、汚れていくのように、頑張れば頑張るほど、人生は思い通りにいかないと分かります。
ウィトゲンシュタインは語り得ぬと言いましたが、神はいないとは言っていません。
頑張ることをあざ笑う人たちの人生に神のあやしは届くでしょうか。
最近の頑張らなくていいという風潮、それ自体は悪いとはいえません。
それでも、頑張る先の苦悩も含めて、全てが人生の味わいと思えたなら、むしろ立ち向かう者だけが、人生からあやされ、人生の癒しを受け取れる。
そう考え、未来を見つめてみるのはいかがでしょう。