哲学=マジメ=そういうのってダルいよね、、、
なんとなく哲学からは時代にそぐわない古臭さがただよう気がしませんか。
はたして哲学は古いのか?
はたまた新しいのか?
プラトンやソクラテスが活躍した古代ギリシャ哲学は3000年以上も前ですし、パスカルやデカルトなどの近代哲学がではじめたのも今から400年前です。
日本では江戸時代初期ですし、人気のあるニーチェでも明治初期から中期にかけての活躍です。
そもそも、そんな昔の思考が現代に通用するのかという疑いもあります。
一般にマジメなイメージの哲学ですが、実際は非常にエキセントリックです。
哲学者たちはキレッキレな天才、時代の先をいきすぎてしまい変人めいた人が多いのです。
そして、3000年も前から絶えずアップグレードが繰り返されています。
その時代の哲学を否定して乗り越えて、それをまた否定して乗り越えて、乗り越えて、半端ないアップグレードが時の天才たちによって行われてきました。
哲学は今の時代に合わせて現代哲学として倫理学や社会哲学、経済哲学、政治哲学、科学哲学など各方面に分化してしっかり根付いているので、決して古いわけではありません。
欧米では盛んに哲学が学ばれ、政治、経済、社会の中で活用されています。学びの場でも「マイケル・サンディルの白熱教室」のような授業は盛んに行われます。
では、哲学は古くなく、逆に新しいとかというと、、、
そんな疑問を吹き飛ばすほど次元の違う「現実」がありました。
何が起こってるのか、哲学の世界に
ある哲学者いわく、、、
哲学は中世に戻ってしまった。
どういうことかというと
いま、哲学をとり巻く環境が中世と同じに様相になっているということです。
中世ヨーロッパは神が世界の頂点に君臨する時代でした。善悪、真実、正義も不義も、その判断は神に委ねられました。
これが中世です。
これまで、世界と人間の真理の探るという学問のトップだった哲学さえ「哲学は神学の婢(はしため)」と言われ、「神学」の下におろされました。
これまで哲学は全ての学問の頂点だとお伝えしてきました。
ただ、実情は中世に戻ったかのようです。
とは言っても、構図が中世と同じ様相だということで、神(神学)がトップにいるわけではありません。
神にとって変わったものとはいったい何なのか?
かつてニーチェは「神は死んだ」といいました。
中世から近代への変化の中で神に引導を渡したのはものがあります。
それは、科学です。
科学の発展は神の首を少しづつ締めていき、この世界が科学で解明されるたび神は死んでいきました。
それと同時に、神から解放された哲学が再び盛んになり、近代哲学から多くの傑出した天才哲学者が生まれます。
神から科学への変化のグラデーションの中で近代–現代哲学は光を放ちました。
現代に入り、科学の発展は鋭角に上昇をします。
どうでしょう、いま科学がなければ何も立ち行かなくなっています。
というのも、、、
科学と資本主義は相性が素晴らしく良いのです。
資本経済を発展させていくには科学から生まれたテクノロジーが必要です。そのテクノロジーが資本主義を牽引し、科学はさらに盛り立てられます。
お互いがマッチポンプのような関係です。
資本経済と科学の発展は私たちに万能感を与えてくれます。
日本では理系全盛にますます拍車がかかっています。
もちろん、科学に良いも悪いもありません。
そして、現在、、、
神の座に科学が収まりました。
もう、哲学が古いとか新しいとか、そんな問題は次元の違う話になります。
いまや哲学は科学の婢(はしため)と言われかねない状況です。
そして、科学全盛、サイエンス推しのアカデミズムの中で薄いものとなっています。
積み上げの先に未来があるのか?
科学は推論からの実験とデータの積み上げです。そこから実証されてはじめて「これは科学だ」と認められます。
科学が進んでいくと同時に、私たちの社会も結果、経験、実績、前例などが重視されてきます。
積み上げていく先に答えがある、正解がある。
経験や実績、前例があるから安心して科学を生活に使えます。命をあつかう医療分野はその点で特に厳しいです。ただ、、、
私たちの未来は積み上げの先にあるわけではありません。
それはどんなに科学が発展しても、予想がつかないのがこの世界だからです。
政治、経済、国際情勢、テクノロジーなどの日々大量に発信される予測も可能性の一つにすぎません。どんなにデータや経験を科学的に積み上げた予測でも、予測であれば覆されるという前提をあらかじめ内に含んでいます。
現実は経験やデータでは測れず、でも手元にデータや経験、実績や前例がなければ前に進めないといジレンマに陥ります。
そういった社会では大胆な発想は出にくいでしょう。
科学が学問のトップにすえられる時代は続きます。
ボードリヤールが見抜いたように資本主義が終わることがなく続いていくからです。
私たちは資本主義に抗うことはできません。
科学と資本経済の恩恵を受けながら、その二つに飲み込まれないようするだけです。
この中世と同じ構図を世界の現実として理解しながら、別の視点を持って眺めていくポジション。
科学の婢(はしため)とならないポジションです。
そこにはまた哲学の力が必要です。
哲学と言っても
哲学の一分野である「美学」が果たしてくれます。
哲学でさえ科学的手法をとらざる得ないなか、「美学」は科学では解明できないというポジションを掴んでいます。
まるでひっそりと輝く北極星のように、世界の動きの中心に美があるとしたら。
哲学の一分野でありながら、科学も哲学を超える可能性を美学は秘めています。
これからの東京美学倶楽部のご提供する美学にご期待ください。