情報があふれかえる今の時代、「批判的思考力」という言葉が注目がされています。
ネットでは「クリティカルシンキング」という表現のほうが認知度も使用頻度も高いかもしれません。巷でも「批判的に考えてみよう」「まずは疑ってみる」といった類の話が勧められています。
よくよくうかがってみると「ただ批判的に見ているだけ」という場合も多いです。
では「クリティカルシンキング」とはどういったものなのでしょうか。
批判、その似て非なるもの
クリティカルシンキングには「批判的精神」と「客観的思考」という2つの要素があります。
現状は「批判的精神」が切り取られ都合よく使われている感じがします。
2つの要素は批判と思考の違いです。
それは「批判すること」と「批判的に思考すること」の違いで、どちらも批判なのですが似て非なるものです。
単に自分の感覚、主観で「批判」をしていくと理由に説得力もなく、ただ単に「批判したいだけ」のあら探しになってしまいます。
批判的精神は必要ですが、肥大するとそういった状況になりがちです。
またクリティカルシンキングをやろうとして、批判と論破を勘違いするのも痛い結果に終わります。日本語の「批判」には否定や非難という意味合いが濃いことも一因でしょう。
クリティカルシンキングの目的は改善です。建設的な要素がなけれな意味がありません。
批判の目的は改善
一方で「客観的思考」になると批判の対象に自己が含まれてきます。
客観的に考えるには批判をするものと、自分の考えを同一平面上において見比べることになります。また、他にでてくる意見や考えも同じく並べてみます。
そこから分析したり、論理をたてたり、合理的に考えたりと簡単にパッとはいきません。
これが「批判的に思考する」になります。
否定や非難ではありません。
批判の対象に自己が含まれるのも、自分の考えになんらかのバイアスがかかっているのではと、自分自身を疑う必要もあるからです。
自己の思考のプロセスも批判の対象になります。
どうやってその考えにたどり着いたのかの過程や方法に問題はないのかという疑いです。
人間の思考は完全に客観になることはできません。客観的な主観の域をこえられません。
ですが、なるべく自分の主観から離れてみるために批判をしてみます。
例えば…こう考えます。
「何が自分にそう思考させるのか?」
離れてみるには、考えるしかありません。思考のチカラを使っていきます。
でも、使うといってもどうしたらいいでしょうか。
使うためには自分で持つ
思考のチカラを使うには、思考力を自分できたえます。そのために哲学の考えを知っていくことはとても有効です。
例えば、なにが正しいのかを考える前に、前提の「正しいとは」がぼやけていたら思考はまとまりません。思考にチカラがない状態です。
「正しいとは」に対して哲学はさまざまな角度の視点、切り口があります。
さまざまな物事に対する思考を哲学を通しブラッシュアップして、自分の考えを決めていく。その一方で疑っていく態度ももっていきます。
相反することをするのですか、それができるのが「批判的思考力(クリティカルシンキング)」です。
哲学者は呼吸するようにクリティカルシンキングができていたから、哲学者たりえた。
哲学自体が「客観的思考」なので当然と言えば当然なのです。
結論としては、哲学を知っていくことがクリティカルシンキングにつながるのです。
と、この私の考えも批判の余地はあるわけです。