そもそもになりますが、なぜわたしが哲学メディエーターになったのか。そして、選択をその中心にすえたのか。
それをお伝えするのは気恥ずかしいという気持ちと、もう一つ「それはわたし自身の思い込みなのでは」という疑いがほんの少しあったのです。
しかし最近、偶然再会した『すいか』が、なぜを代弁してくれていました。
なぜか頭の片隅に残っていた
2003年7月に放送された『すいか』というドラマをご存知でしょうか。
小林聡美が主演、小泉今日子、市川実和子などがワキを固めた連続ドラマで、ハデさはないもののなぜか頭の片隅に残っていました。
最近になってドラマのセリフを読み返す機会があり、当時はわからなかったけれど、今ならうなずけるセリフがそこかしこにありました。
中でも、浅丘ルリ子が演じた大学教授の崎谷のセリフはダイレクトでした。
自分で責任を取るような生き方をしないと、納得のいく人生なんて送れないと思うのよ。
『すいか』
自分で自分の責任を取るとは、大人であれば当たり前すぎるほど当たり前です。納得のいく人生といっても、死ぬ間際に納得できるかなど正直わかりません。
つまり、当たり前のことを言う気恥ずかしさと、責任をとったといえ納得できない場合もあるかも…という疑いがわたしの腰を折り続けていました。
でも、そんなわたしの弱腰を蹴散らすように、崎谷教授は語ります。
自分の人生は誰も肩代わりしてくれないものだから、自分で責任を負うしかないのよ。
『すいか』
だれも肩代わりしてくれない。それは冷たい最後通達のようです。
肩代わりなどなく責任を取るとは、厳しく感じます。が、人生をだれかに変わってもらえないことなど事実中の事実です。
しかし、崎谷教授は責任を負った先に納得があると言います。
それは循環している
責任とは?と考えたとき、そこに現れるのが選択です。
選ぶ自由が与えられたならば、どれかを選びます。実は選ばないという選択肢もその中に含まれます。迷ったままで結論をださないのも一つの選択の結果です。
作家で哲学者のジャン・ポール・サルトルは「自由の刑に処されている」と云いました。
自由と責任は表裏一体。自由を手にした現代人は責任も一緒に手にしたわけです。刑に処されるなんて引っかかる言い回しですが、サルトル特有のウィットとでも思ってください。
自由は選択を、選択は責任を、責任は納得を。
納得する人生のために自由がある。
近代から現代になり、社会から自由を消すことはできません。
なので、自由の次にある選択を自分の考えで決めたのなら、責任への向き合いも明るい色合いになるのではないでしょうか。
そこから人生に納得できるなら、自由をより感じていくことができる。
循環しているわけです。
『すいか』はほわっとした中に「死」が見えかくれるドラマです。りんとした崎谷教授のセリフはただ厳しいだけのものではなくなります。
人生終わりの時点で納得が少しでもあれば幸いだろうと語りかけます。
わたしには若くして向こうに行ってしまった友人、知人が多いのです、なぜか。その方々の分も生きるなら、ただ生きるではなく、わずかでも納得をもって行きたい。
わたしだけでなく、多くの方の人生が納得のあるものであれば、現代社会の豊かさにつながっていく。そうも考えております。皆さまはいかがでしょうか。