あなたは思考と実践のどちらを選んでいきますか?
成功体験がある人ほど実践を重視する。
これまでの実践経験からの「現場感」という感覚を大事にする傾向にあります。
実践からの得られる「現場感」が行動や判断を左右していきます。なので…
実践>>>思考といった順列になり、思考も実践をふまえないと意味がないわけです。
「まだ慣れてないのだから、指示通りに」
長年そうやって上手くやってきたという「現場感」はどこでも強いコードになっています。
まずは実践していきながら、感覚をやしなっていくことを重視しますし、もちろんとても重要なことです。
ですが、一方でそれほど現場感を信用していいものかという疑問も浮かびます。
人間の「感覚」なわけですから。
これまで成功してきたという前例が源なら、それほど高い信用になるとも思えません。
というのも…
1000匹目は白なのか?
前例が信用にならないことを語ったのがカール・ポパーでした。
私たちは「科学的である」という言葉に絶対的に信頼をおいています。
この方法は科学的に証明されています!と言われると安心感を覚えます。
ここで「科学的である」とはどういうことでしょうか。
ポパーは科学の定義をこうしました。
「反証可能性(間違いを証明できる可能性)」
白鳥は本当に白いのかを調べ、999匹まで白いことがわかったとします。
ここまで調べたのだから、もう白鳥は白いと断言したのですが、その後、1000匹目に黒い白鳥が見つかってしまった。
今のデータで100%の確率で白鳥が白かったとしても、未来において黒い白鳥が見つかる可能性があることを認めるのが「科学」だとポパーはしたのです。
「科学的である」ということは絶対的真理でもなんでもなく、正しくもなんともない。
現場に慣れてないから
データを積み上げていく科学であってもポパーの「反証可能性」をもって、真理だ、正しいとは言えなくなったわけです。
では、感覚である「現場感」はどうなのでしょうか。
感覚を大事にしていくと実践>>>思考となり、重要性のシーソーは実践に傾きます。
白鳥のように、1000回目は違う結果になることもあるわけです。
未来においてどうなるか、それは実践でなく思考の領域です。
実践<<<思考となり、シーソーは思考に傾きます。
実践に培われた「現場感」はもちろんとても重要です。しかし、感覚の問題なので強いコードになってしまう可能性があります。
では、どちらが大事なのか
ある麻薬捜査官を描いた映画がありました。
自分の腕と経験に自信のあるベテランの捜査官たちが、「現場感」にしたがって麻薬の流れを追っていくなか、一人だけ違う行動をとる捜査官がいました。
「あいつはまだまだ現場を知らない」
しかし、結果として麻薬ルートを潰せたのは別行動をした捜査官でした。
ベテランたちが「現場感」に従って麻薬のルートを追う中、彼は「思考」に従い金の流れを追った。
思考あっての現場感、思考あっての実践。
思考と実践、どちらを選ぶかというと…
どちらか一つを選ぶということではなく、まず必要になってくるのはこの二つの関係性に目を向けることです。
私たちはとかく順位付けをしたがります。その順位に応じて物事を決めていくのがスムーズだと思っています。
ふたつの間に何があるのかを目を向け考えると、違った見え方が浮かび上がります。
ただそれは、考えるという思考がベースにあってできることです。
思考か実践か…
という前にすでに思考が備わっていることが前提条件になる現実があります。